細呂木 川口城跡
- 歴史
昔の市街地は、細呂宜郷の中心沢の春日神社前を通り、指中村を経て指野へのぼり、西方寺をすぎ、清王の七つ塚古墳の山裾を経て金津大橋に達する重要道路であった。
それで江戸時代には西方寺に高札場があった。
市街地とは、金津市場に通ずる大通りということで、中世に始まった金津市場は、北陸街道の宿場と竹田川の川港をかねて、大そう栄えていた。
指野の川口城址は、南北朝時代の昔(1338年の頃)新田義貞の味方をした畑時能が築いたもので、時能は細呂木城を守り、川口城は細屋右馬助に守らせた。
時能は、大聖寺近在の敷地、山岸、上木の武士と共に大聖寺城の津葉五郎を亡ぼしてから斯波高経の大軍を、この市街道すじの野で打破った。(太平記)
それで江戸時代には西方寺に高札場があった。
市街地とは、金津市場に通ずる大通りということで、中世に始まった金津市場は、北陸街道の宿場と竹田川の川港をかねて、大そう栄えていた。
指野の川口城址は、南北朝時代の昔(1338年の頃)新田義貞の味方をした畑時能が築いたもので、時能は細呂木城を守り、川口城は細屋右馬助に守らせた。
時能は、大聖寺近在の敷地、山岸、上木の武士と共に大聖寺城の津葉五郎を亡ぼしてから斯波高経の大軍を、この市街道すじの野で打破った。(太平記)