鯨塚
- 歴史
鯨の供養塚。私が、小学校低学年の頃だったと思います、夏休み、毎日のように泳ぎに行った瀬際から弁天島に向かう途中の崖下に、確か誰とは無しに「鯨の墓があるよ」と言い聞かされたことを、今・・・・思い出します・・・・。 浜坂の305号線を、吉崎に向かって進み開田橋の手前で左へ折れ小さな路地を入ると民家や船着場が立ち並ぶ、そこを日本海側に900mほど進んだところ、草木をより分けて、緩やかな坂を100mほど登ると小さな墓石らしいものが見えます、それが鯨塚の碑です。 江戸時代、この辺りには船着場や番所があって、この緩やかな坂を「ごまん坂」と呼んでいました。 コナゴを運ぶと、一荷ごとに5文の駄賃をもらったことから「5文坂」といい、それがなまって「ごまん坂」と、言われるようになったと伝えられています。 旧芦原町の、教育委員会が郷土カルタを作るために鯨塚の調査に出かけた時のことです。 地元の人に、案内をしていただきましたが草木が茂り、見つけるまでに半日かかってしまいました。 そこで、郷土カルタの鯨塚の読み句は、「草と木につつまれて在る鯨塚」と詠まれました。 当時(文化9年1812年頃)浜坂は、約170戸700人の大きな漁村でした。 その頃に、天候不順で不漁や凶作が相次ぎ、平和な村は苦しい生活に一変したといわれています。 旧芦原町史によると、鯨塚建立の前年の文化8年に一揆と思われる事件が発生していると記載されています。 そんな時、一頭の大鯨が浜坂の浜に迷い込んできました。 浦人は狂喜してその大鯨を捕獲して食料としました、この大鯨一頭のおかげで浦人は10日も飢えをしのいだと伝えられています。 大鯨を一頭捕れば7浦(漁村)が潤うといわれ、古来、人々は鯨を「福を呼ぶ神様」として信仰したり、捕鯨地に供養塔を建てたりして鯨に特別な思いを寄せていました。 県内には浜坂の他、小浜線の本郷駅と和田駅の中程の青戸入江に面して、鯨の供養塚が立っています。 鯨の供養塚は、日本海側には珍しいといわれています。